きんたこブログ

オーディオとギターとを愉しんでいます。

TAKANAKA SUPER LIVE 2018 “BRASILIAN SKIES 40th 野音 de カーニバル!! / 高中正義

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高中正義氏が昨秋に行ったコンサート・ライブがDVDで発売されました。万歳!

高中氏は、この数年札幌でもコンサートを開いており、必ず聴きに行っています。そして来場の記憶を忘れないためにもDVDを買い続けています。

コンサート当日に気になっていた(ワイヤレス)ギターのキンキン音も修正されており(いや、日比谷では改善されていたのかな?)、SGの甘い音色が堪能できます。プレイ自体も緊張感が続いており、近年のビデオでは白眉の類いに入るのは間違いありません。

仕事から帰宅し、届いていたDVDをすぐさま開封して夕飯のお供に鑑賞したのですが、お酒の力もあって涙ぐんでしまうほどの魂の高ぶりを味わいました。

Amazonのレビューでは、辛口の批評が多い高中氏のビデオですが、このビデオには不満の一齣を飲み込んでいただきたい。

確かに見た目は歳を重ねたなぁと感じますが、プレイは枯れることなく素晴らしいものです。
いたずらに速弾きを売りにしなかったのも正解でした。
マンネリのセットリストと言われながらも、いつもと変わらずにメロディアスで味わい深いプレイを披露してくれる高中正義氏に、畏敬の念を抱かずにはいられません。

大学生の頃、高中氏の楽曲をあまりにも聴き続け、コピーに励んでいたために、高中氏以外の楽曲を弾いても「高中」っぽい音になってしまいました。愛用していたギターが、高中氏と同じくYAMAHAのSGだったことも無関係ではありません。
当時はそれが気恥ずかしくて、高中氏のフレーズを弾くことを控えておりました。自分のサウンドを目指していたのです。若かったのですね〜。

今にして思えば、私のギターサウンドなんて価値の欠片もありませんので、あのままニセ高中サウンドに精進していたほうが幸福だったなぁと思っています。

高中氏は今年も来札してくれます。コンサートのチケットも手に入れました。今年こそ恥ずかしがらずに、歌舞伎の大向うよろしく「タカナカー」と声を張り上げたいと思っています。

GREATEST HITS / CREATION

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雪が融けたのを機会に自家用車で通勤しています。

体調が悪くなってもバスで通勤できるように、起床時間は5時ジャストなのは変わらず。6時にはきっちり家を出ています。

190万都市の札幌とはいえ、流石に6時だと道は空いており、ストレスなく勤務地に辿り着きます。それでも20分ほど遅れると、街なかで渋滞に巻き込まれてしまいます。気を抜くことはできません。

快適な「ドライブ」には素敵な音楽が必需品ですが、CDを何枚もクルマに積むことはできません。厳選したCDを100均で購入したCD-Rに焼いて(オリジナルCDに傷がつくのは勘弁です)、ヘビーローテーションで聴いています。

シチュエーションが異なるためか、普段好んで聴くジャズやフュージョンではなく、意図はないのですがボーカルものと特撮の楽曲ばかり聴いています。

CDにはタイトルをわざと記名せず、そのときの運勢でCDが決まるようにしています。こうしたCDの中でも、「GREATEST HITS /  CREATION」に当たると特に嬉しく、今更ながら痺れまくって聴き惚れております。

竹田和夫のギターが、本人の歌唱のようにやや掠れながらも実に味わい深く魅力的なのは周知のこと。

改めて今回唸らされるのは、故・樋口晶之氏の叩くドラムスのタイム感です。ルーズでもスクウェアでもなく、更には自己主張も強くないのですが、ガシッと楽曲の屋台骨となって、楽曲の完成度を非常に高いものに押し上げています。
 
高校生の頃は、この素晴らしさが全然分かりませんでした。 
プロレスにも興味がなかったので、「Spinning Toe Hold」のカッコ良さにも今更ながらに胸が高まります。

CREATIONのCDは、今後買い集めることになるでしょう。「勉強」のためではなく、本心から聴きたいCDを集めることは、苦行である一方(なにせお金に不自由な身ですから)、実に愉しい時間でもあります。

さて、次はどのアルバムを手に入れようかな。新生CREATIONによる「Resurrection」がとても気になります。

レンタルサーバーの一本化

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我が家のネット環境は乱雑である。私と妻の独自ドメインは同じところで取得したものだが、ブログとレンタルサーバーはそれぞれ別のところと契約している。とても不経済である。

妻はネットビジネス(って言うほど大げさなものではない。趣味の手作りの服飾・アクセサリーの直販と、本業の宣伝が目的である)を将来的に行いたいので、商業活動が可能でWordPressが使えるサーバーを借りている。
私は商業活動とは一切無縁のネット活動なので、とてもお安いサーバーを借りているが、二人合わせたレンタルスペースは使い切れないほど膨大なので、妻の借りているサーバー(私が使用料を支払っている)に統一しようと3月から準備を始めた。

紆余曲折を経て、ようやく本日一本化することができた。

時間がかかった原因のひとつは二人の持つ独自ドメインである。
独自ドメインはDNSサーバーの設定が難関である。
「IPアドレスが〜」とか「〜が不正です」とか次々と姿を変えては現れる壁に、絞りどころをいろいろと変えながら無い知恵を駆使した。遂に壁は崩れ去り、サイトとブログとが問題なく閲覧できるようになった。

難問を解くヒントはネットに散らばってはいるが、自分のケースに当てはまるとは限らない。今回もいくつものケースを数日間試行した挙句、ふと気になったポイントをちょちょっと記述したことであっさりと成功した。

論理的思考力で解決したのではなく、あくまで試行錯誤の賜物である。理数系の勉強が全然できない私の人生のようで面白い。

今後はホームページビルダーに頼らずに、自力でhtmlを記述することへの挑戦である。評判の良い参考書は買ってある。少しづつではあるが読み継いでいる。副産物として、ヤフオクの商品説明のテンプレートを改造できるようになった。

年内にサイトのINDEXを画面中央に表示させることが、令和元年の私の課題である。

(自分のサイトを改めて見ると、画像が表示されていない箇所が幾つもあった。テキストエディターで早急に調査および改修が必要だ。)

Roland MICRO CUBE

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ZOOM RT-223 はとても優秀なリズムマシンで、内蔵電池の消耗を気にしながら愛用しています。

しかし問題が一つありまして、パワーアンプが非搭載なのでパワードスピーカーが必要なのです。

最初は不要のパソコン用の外部スピーカーや bluetooth を用いたワイヤレススピーカーで鳴らしていました。しかし真空管アンプの音圧に負けてしまい、思ったようには鳴ってくれません。
やはり安いトランジスタアンプを買うしかないなと結論づいて、あれやこれやと検討しました。

将来性を考えると(Artuiria Drumbrute が欲しいなぁ)キーボードアンプが良さそうなのですが、これまたデカい。ブギーのアンプがデカいことで狭くなった部屋には入れられません。

サイズ的には、既に売却してしまった ヤマハの THR10 がベスト。う〜ん、基本的性能が抜群に良かったので買い戻そうかなと思うほどでした。

考えあぐねてメルカリを覗いていると、Rolandの MICRO CUBE が目に止まりました。なんだかとても気になります。出品者の方とのやり取りでお値段も安くしていただいたので、購入してしまいました。

届いたお品は予想に反して元箱に入っていました。しかし埃まみれで薄汚れていて、足のゴムもなかったりの状態でした。

そこでアンプ全体の埃を払って丁寧に磨き、欠損していたゴム足も島村楽器で注文して装着しました。
これだけで購入価格以上の風格が漂います。

(以前、中古で購入した薄汚れた Roland の JC-20 を売却したときも、壊れたロゴプレートを新しく付け替え、自動車のダッシュボードを磨くための Armor All でキレイに拭き上げたところ、「美品で感激しております」と感謝されました)

早速音出し。うん、いい按配で鳴ってくれている。バスドラも力強いし、ハイハットも煩くない。
そこでハッと思いついたのは「ギターを繋いだらどうかな」。

そもそもギターアンプにも使える品物です。案の定、ギターをつなぐとJC系のアンプの音がします。私はJCの音が嫌いではありません。
更にMooerのマイクロプリアンプ 008 を挟んでみます。
なんということでしょう。隣に鎮座しているブギーのようなサウンドが鳴り響くではありませんか。

防音対策をしているといっても、オーディオを爆音で鳴らすのとエレキギターを爆音で鳴らすのとでは「意義」が違います。

私の決心は速かった。「ブギーを売ろう」

以前の Fender PRINCETON REVERB 同様、嫁ぎ先は直ぐに決まったので、元箱にもどし、厳重に梱包を施して売却してしまいました。連絡によれば、三代目のオーナーも素晴らしい音だと感じてくれたようです。

ブギーがいなくなった部屋は、再び広くなりました。売却して得たお金はオーディオのメンテナンスの費用に回る予定です。 

それで済めばいいのですが、やがて不満が高まり、 JC-22 を懲りずに購入する予感がします。

お金を貯めるのは難しい

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ヤフオクとメルカリにちまちまと出品しては、お小遣い以上の金銭を手に入れている。
しかし出費も嵩むので、思ったような蓄えができない。

遣わなければ良いだけなのだが、「儲けた」お金が全て自分の「モノ」にならないことがやはり大きい。

例えば、この冬、うちの玄関は自動点灯式のLEDに交換した。夜遅くに帰ったとき「鍵を解錠してドアを開けたら、自動で点灯してくれたらイイなぁ」といった私の願望を実現させるためだ。もちろん、そのことで妻も便利に思ってはいるが経済的援助はない。

洗面所および洗濯機コーナーもLEDで明るくしたが、私持ちである。
妻曰く「家の改善は家主の責任」とのことだ。

買い物に出かけたときのちょい足しのモノは出してもらっているので、あまりお金の細かいことを言えないでいる。

ボーナスのときに臨時のお小遣いを特別支給されているお父さんは多いようだが、私は一銭も貰っていない。妻曰く「満額支給されてないのだからあげられない」のである。

さらに私も妻もそしてイヌも病院通いをしている。一回行けば小一万円かかる現状を分かっているので、無粋にお金を無心できない。

職場でも、自腹を切って文具を購入している。官給品の文具は安物で使いにくいからだ。使い勝手の悪い文具でつまらないストレスを感じたくない。事務仕事はサクサク行いたい。

私の趣味の支出も大きな原因だ。

最近はコンピュータ(ソフト)の解説本や買えなかったCD、そして「ねんどろいど」の支出が多かった。今までどおりに我慢すればいいのだが、やはりあれば遣いたい。

「ねんどろいど」は以前から興味があったが、高いので我慢していた。値崩れしたのかメルカリで廉価で入手することが最近分かり、何体かを購入した。結果、とても満足している。

人間、物欲がなくなったらいよいよ危ない。

性欲は枯れて、食欲は美味しくて腹が膨れれば何でも良くなった。承認欲求は疾うの昔に失っており(褒められたいから一所懸命に仕事するのではなく、自分が納得したいから完璧に行なう。実際いくら丁寧であっても褒められない)、青年時の志はすっかり消えてしまった。
今はただ、妻とイヌの生活と家のローンの返済のために仕事をしている。

しかしこれはマズい。労働のモチベーションが余りにも無味乾燥だ。そこで「家の奴隷」にならないためにも、自分の趣味(ギター関連)にもわざとローンを組んでいる。
 
こうした事情から30年以上続けていた怪獣コレクターは廃業し、ネットの力を借りて換金している。

アンプの修理費は確保できそうだが、CDプレーヤーのメンテナンス費に難儀している。

100体以上あったアイテムも底が尽きそうだ。今月の支出に命運がかかっている。なんとかして支出を抑えなくては…。

PRS のギター・シールド

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以前、「Paul Reed Smith のギター・シールドを刺すと、PRSのサウンドになる」といった趣旨の投稿をネットで読んだ。

ケーブル(ギターの世界ではシールドと呼ぶ)の重要性は、オーディオでもギターでも同じである。

オーディオの世界では、電源ケーブルのブームが吹き荒れてからもう20年も経つ。エレキギターの世界では、ギターアンプの電源ケーブルの交換が現在盛り上がっている印象がある。

それではエレキギターはオーディオに遅れているかというと、そうでもないところが面白い。
エレキギターではシールドのワイヤレス化が勢いを増している(音痩せ等の問題はあるが、プレイをする上での自由度が飛躍的に高まった意義が支持されている)。
しかしワイヤレスよりも熱いのはシュミレーターである。新機種が発表される度に、各社のアンプシュミレーターが実機に迫るリアルさを増しているらしい(楽器店に滅多に行かないので、最新機種を自分の耳で確かめることができないのが悔しい)。

私も、中華製のプリアンプシュミレーター(MOOER)を持っている。ローランドの安いアンプで試しに音出しをすると、持っていた高価な真空管アンプとそっくりな音が出て魂消た。もちろん音圧など「真実の音」とは随分と異なるが、余りのクオリティの高さに「本物」の真空管アンプを売却してしまった。

この技術がオーディオに転用されれば、とんでもないことになるだろう。往年の、更には現役の著名な機器が多種かつ安価で楽しめるのだ。

以前よりデジタルヴォイシングイコライザーがアキュフェーズから出ているのだから、最良の音響環境を現在の技術でシミュレーションできないほうが不思議だ。

エレキギターの世界では、人気のあるエフェクターやアンプのコピーモデルやモデリングは久しく当たり前のことである。
オーディオの世界では、せいぜい名機の真空管アンプのレプリカが常識の範疇になる。自社の復刻版ですら実現可能が難しい。

長い時間をかけて人間の感性で築き上げたことが、デジタル技術によって容易く再現できるようになることは、幸いなのか不幸なのかは私には判らない。
オリジナル製品には莫大な資金と時間と工夫とが投入されている。商品になる創造には、プライスレスな価値がある(もちろんオリジナルをトレースする技術も容易いことではない)。

しかし一消費者としては、高度な「成果」の恩恵を安価で享受できることは僥倖以外の何物でもない。

数しれぬ先人たちが踏み固めた轍の上を、当たり前のように駆け抜けてゆくヒトはいったい何処に行こうとしているのだろうか。

話が随分ずれてしまった。話題はPRSのシールドについてである。

PRSのシールドは繋いで音を出した刹那、酷く気に入ってしまった。色気というか品位のある厚みのある中音域とでもいうか、確かにギターのサウンドが好ましく変貌した(残念ながら、私はPRSのギターを所有したことがないので、PRSのサウンドは判らない)。フレーズを弾いていて、この上なく気分が高まってくる。これはもうツマラナイ思考をする余地はない。

かくしてPRSのケーブルは、私のギターには必需品となった。
恐らくアンプのように売却することはないと思う。

当たらなければ良いけれど

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昨日、帰宅すると「残念だけど、近いうちに大きな地震がくるかもしれない。」とうちの奥さんが呟きました。

聞けば、大きな地震雲らしきものが見えたらしい。

以前に投稿したことがありますが、うちの奥さんの地震を当てる確率は高い。だからといって命拾いしたことはありませんが…。

我が家はペットボトルの水を箱買いしており、ちょうど買い物を済ませたばかりなので食材も冷蔵庫に大量にストックされています。クリニックにもいったばかりなので薬も大丈夫。偶然にも備えに関しては準備ができています。

もちろん何事もなく平穏無事であることが一番望ましいのは、言うまでもありません。


お金を儲けるのは難しい

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二月は逃げる三月は去るとは良く言ったもので、前回の投稿からひと月がもう経ってしまった。

この間に、大動脈解離A型で生死の境を彷徨った妻が退院し、徐々にではあるが元気になってきた。動物病院に預かってもらっていたチワワも12月いっぱいと宣告された生命を持ち堪え、どうやら春を迎えられそうである。

私は、うつ病の酷い頭痛で生産的なことが何もできずにいる。仕事の他には、週に2時間ほど断捨離オークションで売却したアイテムの梱包作業を行うだけである(果たしてこの頭痛は本当にうつ病由来なのだろうか。ロキソニンは全然効かず、抗てんかん薬で脳内のスパークをなんとか抑えて我慢している)。
ギターも弾かずオーディオも聞かず、コツコツと小銭集めで時間を浪費しているわけだ。

今年になってから、私はヤフオクでもメルカリ同様に送料込でアイテムを出品している。送料別の他の出品者並の価格にしているのだが食いつきは悪い。ネットで喧伝されている「コツ」を意識して写真などにも気を遣っているが、入札にはなかなか至らない。

送料込の場合は目立つようにヤフオクの運営サイドもいろいろと工夫をしてくれているが、現在価格が安い方が依然として入札されやすい。

開始価格が高いと入札されても競争があまり起こらない。梱包用のダンボール箱やエアパッキンなども、廃物を再利用せずに必要な分量をその都度購入している。更には送料の請求が万単位で後日やってくる。このため売上があっても純益は思ったほどないといった塩梅である。

昨年、秘蔵のアナログレコードを数十枚放出したときは今回とは全然違った。アナログレコードはあれよあれよと勝手に値が上がり、在庫はすべて売り切った。また、アナログレコードは通販専用のダンボールが市販されており、ゆうメールで安価に送れたので発送作業はとてもイージーかつ経済的だった。
その売上で必要経費は容易くペイできて、そのうえギターアンプを購入することができたほどだった。

あの時の記憶があるので、じわじわと値を下げても入札されない今回の出品がもどかしい。

ヤフオク=落札代重視(送料軽視)、メルカリ=送料込での代金(値切る余地を少しだけ上乗せる)の図式は既に完成されており、そうそう崩せそうもないようだ。

信条を曲げれば粗利が増すのは分かってはいる。
しかし使えそうなダンボールを保管して適切な大きさに改造したり、不揃いの箱を郵便局で局員が一つひとつ計測したりする手間は倍増するだろう。
なによりも、出品者負担にするほうが送料が断然安くなる、そのほうが購入者にとって一番のサービスになると信じている。

本業ではないので私の「商売」は甘い。薄利は本望ではないが利潤優先はそれ以上に望んでいない。もう少し品物がポンポン捌けて、アンプとプレーヤーの修理代にしたいのだが、道のりはまだまだである(私のコレクションが、ポンポン捌けるアイテムかどうかも問題ではある)。

郊外へ / 堀江敏幸

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性格が元来前向きとは言えない。ネガティブとまではいかないが、ポジティブさに欠いているところは多い。

だからこそ、太宰治を読み耽ったのは当然だったのかもしれない。所謂大人の小説で最初に嵌った作家だった。きっかけは、石坂浩二が太宰を演じていたテレビドラマだった。勿論中学生ごときの読解力で太宰の真髄をむしゃぶり尽くすことはできない。しかし麻薬的な快感に痺れてしまい、文庫本を次々と買い漁った。

中学生の時の思想的支柱は筒井康隆だった。常識を疑い、本質を捉える努力をしないでモノゴトの表層でこと済ますことの浅はかさを嘲笑う筒井の姿勢は今でも強く内在している。高校生の時には、この考えに安部公房の、当たり前の日常を安易に受け入れることの危うさの感覚が更に加わる(できたらカフカを読むためにドイツ文学科に行きたのかったのだが、行けなくて正解だった)。

大学生からは丸山健二だった。自分の力では獲得できなくなった生きている実感を、他人の劇的な行動によって感動の同期を期待するものの結局は失敗に終わり、自分の生は自分自身でしか充実させることができないといった「ワンパターン」の思想に溺れた。

それ以降、飯のタネとして「文学」を読む年月が永らく過ぎた。
そこでの読み方は決して「文学」ではなく、「小説的」文章の読解でしかなかった。

文学研究を齧ったものならば当たり前のことを、簡便に「法則化」として書かれている書籍を買い集め、自分の「読解力」の自信を深めていた日々を思い出すほど苦々しい。
そんなことで「文学」部出身でございと低い鼻を高く見せていた。

テクストに書かれていることが全てであるといった金科玉条に縛られて、「何が書かれているか」かが重大な関心事だった。
ようやく「どう表現されているか」に目を向けるようになったのは、堀江敏幸の登場以降である。

そのくらい堀江の文章の衝撃は凄まじかった。それまでなんの気もなくただ好きで読んでいた吉行淳之介や小島信夫、庄野潤三といった第三の新人の新鮮さを今更になって気づいたくらいだった。

残念ながら現在の日本の小説家でノーベル文学賞に値するのは村上春樹ではない。
(同じように、大江健三郎のノーベル文学賞も怪しい。三島由紀夫はどうかと思うが、安部公房の受賞に異論を挟む人はいないだろう。しかし大江の作品に世界的かつ普遍的価値を見いだせる読書人はどれだけ存在するのか。大江の作品は内容・表現ともに日本の文学の到達点として相応しいとはぼくは全然思っていない。…初期の作品群は実に好みだった。全集も繰り返し読んでいる…と、いっても世界的文学賞には値しないが。

閑話休題

悲しいかな、北海道の街は懐が深いのでいつでもぼくを受け入れてくれるのだが、ぼくが「異邦人」感覚を捨てきれない。東京とはもう決別したはずなのに、札幌に居住する期間のほうが永いのに、故郷意識をもつことが未だにできない。4年間しかいなかった釧路には深い郷愁を感じているのに。

標準語のような東京弁と北海道弁のピジン語を話すぼくは、日本人であること・日本語を使うこと以外、これといったアイデンティティを持つことができずに漂うとなく生きている。「何をして生きるか」に自縄され、「どう生きるか」の境地には辿り着けていない。

生きる(あるいは希死念慮)

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妻が入院してはや三週間が経った。

テレビばっかり見ているのでその手の豆知識に造詣が深い妻が、救急隊員が来る前に激痛なのに脚の感覚がなくなってしまい「もうだめだ」と漏らした諦観の声を絶望的な気分で聞きながら「救急隊員がなんとかしてくれる!」と鼓舞したことや、雪かきをサボってしまったので雪深かったアプローチをザクザク渡って救急車に乗り込み、30分以上はかかる病院までの道中(救急車は思っているほどスピードを出さない)のことをぼんやりとは思い出すが、時間の感覚はおかしかった(自分が救急車で以前搬送されるときは未来永劫続くかと思われたが、実に短時間で病院に着いたような気がする)。

診察の結果「大動脈解離A型」であることが判明した。妻がもし逝ってしまったらと絶望し、思考回路がショートしてしまったように感情と体調が狂っていた三週間だった。

仕事も休んだ。うつ病が悪い波を打って心身共に制御不能の日もあった。上司がお見舞いに来たときも、まともな対応ができなかった。自分に必要なモノゴトが次々と剥がされるような時間を過ごした。不安だけしかなかった。思考はやはり働かなかった。

現在、妻の様態はだいぶ落ち着いている。早ければ今月末で退院だそうだ。ただその確証はない。

今回の件で改めて理解したこと。

・もう仕事には希望も情熱もない。与えられた職責を果たすことしかできない。いやそれすらできないかもしれない(分限免職だ)。
 
・趣味も上辺だけで愉しんでいない。大切なコトを犠牲にしてでもといった熱意はない。

・ビールが美味くない。甲類の焼酎で十分。

もうナイナイづくしでどう仕様もない。しかし実際生きていることの価値が積極的に見いだせない。

こんなことを言えば、90歳を超えてなお生きる執念に取り憑かれている義祖父や、癌に犯されてでも仕事をやめようとしない実父に怒られよう。

しかし仕方がない。うつ病とはそういうものだ。自分で首縊りを画策しないのでまだマシだ。
自分以外の人に起こる「良かったね!」を糧にして、自分の命を取り留めている(いや、もちろん自分が死んだら色々と面倒な事が起きて困る人が出てくるのは百も承知のこと。だからこそ自分で首縊りはもうしない)。
livedoor プロフィール

きんたこ

オーディオ・ギター・怪獣が大好きな、文学崩れの鬱々おじさんです。毎朝、ひふみ祝詞を奏上して、納豆・バナナ・ヨーグルト・リンゴ黒酢を義務感の如く食しています。

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